わたしは、真実とか、真理、というものは本当にシンプルなものだと思っています。
それに気づくためのプラクティスもシンプルで地味なもの。。。だと思っています。
難しいメソッドのようなものはいらない。
やり続けることができるかどうかということ。
でも、世の中を観察していると、頭(思考)というものは、複雑で簡単ではないものの方を素晴らしいと感じてしまうところがあるんだなぁと思うことがあります。
そして、もっと言えば、ヨガのようなシンプルな運動のようなアーサナをしていてもたいして変化は無いだろうと思っている人が意外と多いなぁと、教えていると度々思います。
ヨガは「こころの科学」と言われているんですけどね。
実際ヨガの先生の資格を持っている人の話を聞いていても、アーサナを体の動きとしてしか捉えていないんだなと思うことを言う人も結構いるのです。
または、アーサナはそんなに重要視していなくて、瞑想などの5〜8の支則の方を私たちはやっていますと言うことを一生懸命強調する方達もいます。
では、わたしにとってはどんな風に感じられているかと言うと、アーサナだけが大事なわけではもちろんない。
でも、アーサナの中に、8支則全部あるとも言える。それは練習の仕方であり、先生のガイドの方向性であり、本人次第という前提はありますが、どこまででも行ける。
そして、最後の枝、サマーディは7までを積み重ねていった先(未来)にあるものだとも、思っていません。一つ一つの枝(支則)の中に全部ある。
実際クラスが終わった後で、生徒さんから、「今日は練習中、ものすごく気持ち良くて、体は動いているんだけど、中心にいつも在る感じで、至福感としか言い表せない感覚の中にいました」と報告されることが時々あります。
結構、満員で人のたくさんいるクラスの時ほど、後からそう言われてびっくりします。
サマーディを未来に達成するものと設定している限り、経験することは難しいのだと思います。
瞑想センターで何日も座って達成するものだと思っていたら、なかなか日常でサマーディを感じられるようになるのは難しいと思います。
その場所にいるときだけいい感じ、、、、というのでは、私は意味がないと思うのです。
私たちの本番は、日常ですから。
楽しみで行くならいいですが、そこにいかなくてはできないと思っていたら、遠回りになるような気がします。そして、そこに行っている自分を特別視するようになったら、それは大変、エゴが育ってしまっています。
ヨガを深めているつもりが、スピリチュアルエゴが育っていた、、、ってことに気づけないって、よく在ることだと思うのです。危険信号です。
ヨガを色々と分けて考えている人、「わたしがやっているのは○○ヨガです」というよく聞く言葉。
わたしも便宜上アーサナのシークエンスに関しては使う言葉ではありますが、わたしはヨガは一つだと思っています。
いろいろな方法はあるにせよ、ヨガが目指しているところ「真理」に気づくため「本当の自分」に気づくための方法であることに変わりはないからです。
せっかくシンプルで素晴らしい方法なのに、複雑なように思わせて、誰にでもできることではない特別なことにしてしまうのは勿体無いなぁと思います。
それから、ヨガをやっているとどうなるかということも色々と誤解があるような気もします。
ヨガを続けていると、何事にも動じなくなるわけではありません。
「ブレない」という言葉もありますが、ブレないように必死に頑張るよりも、ブレたらブレたっていいじゃない。。。。しばらくしたら中心に戻るから。。。という柔軟性と素直さと自分に対する信頼が身につくと言ったほうがいいような気がします。
泣いたり大笑いしたりしなくなるわけではありません。
物事に執着しなくはなりますが、感じる力は格段と上がりますので、悲しみも喜びも、その瞬間感じる感情は実は何倍にも何倍にも深まります。
こんな深い悲しみを、私は感じることができるのか、、、というように。
悲しみも怒りも喜びも、今沸き起こってきた感情をそのまま感じる。
ただそれを掴んでおくようなことはしなくなるということです。充分に感じたら離れて行くままにしておく。とても豊かなことだと思います。
いつまでも思い出しては悲しみ、思い出しては悔しがり、思い出してはあー、あの時は良かった、、、と思うことはなくなっていきます。
いつも今この瞬間に精一杯全力で、でも軽やかに生きるという感じです。
あなたのヨガライフはどんな感じですか?
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